前回は昭和の空気漂う、のんびりとした平和な某研究所でのアルバイトの話でした。その後、大学でお世話になったあのH教授を通して、「ペルシャ絨毯販売をしている会社で社員を探している」という話をもらいました。その会社の社長さんは、大学時代にもイラン関係のイベントでお会いしたことがあり、そのお話を嬉しく思いました。
大学卒業後にイランへ留学するのですが、かなり長くなってしまうので留学の話は、また別の記事でご紹介します。留学後、日本に帰ってきて大学院受験をしたのですが、まぁ見事に勉強不足で落ちました。私自身、何のために勉強するか、かなりぼや~っとしていたので、大学院はさっさと諦めました。
後半の旅行では、現地の旅行会社にお世話になりました。 どこからどこまで添乗してもらったのか記憶が定かではないのですが、 添乗員はアミールという20代の好青年でした。アミールは「日本人旅行者は お行儀がよくて一番いいね」と言っていました。
大学3年生の時に行ったイランへの3週間の現地研修。前半は提携校であるシーラーズ大学にお世話になり、ペルシャ語の授業を受け、イランの大学生と交流をしたり、郊外の遺跡や遊牧民、美術館などを見たりしました。その後、シーラーズを離れてバスで移動し、砂漠の町でゾロアスター教が鳥葬をしたという丘や、農村の様子を見ながら、首都テヘランへ北上していきました。
イランでの現地研修、前半のシーラーズ大学にお世話になっている間は、街の中にある寮を使わせてもらいました。2階建てのコンパクトな建物でした。1階には、リビング、キッチン、シャワールームがあり、寝室は3部屋くらいだったと思います。同時期に、インド人の教授(男性)も宿泊していました。
イランでの現地研修の前半は、シーラーズ大学にお世話になり、午前中はペルシャ語の授業を受けて、午後や週末はあちこち見学しに行きました。ちなみに、あちらの“週末”は、金曜日が休みなので、木曜日が週の終わりになります。私はふだんそんなに病気をしないのですが、お腹が弱くて、研修中に腹痛で数日寝込んでしまったことがありました。
日本でのペルシャ語の授業では、イラン人の先生と言うと、迫力があって怖い印象でしたが、現地の大学でお世話になった先生方は、親しみやすい先生ばかりでした。ペルシャ語で、「素晴らしい!」という意味の言葉は、「オッファリン!」とか「バリキャッラー!」と言います。
私たちがお世話になる大学がある街・シーラーズは、イランの首都・テヘランから約685km南下した所に位置する古都で、日本で言うと奈良のような街です。イランは広大な国土のほとんどが土漠(どばく)と呼ばれる乾燥した地域。古都シーラーズも、街の中心から少し離れただけで、茶色い土地が広がっています。
1991年11月某日、H教授と8人の学生たち(男女4名ずつ)が3週間のイランの現地研修へと旅立って行きました。北京の空港を経由したのち、イランの首都、テヘランまで直行です。往きのイラン・エアの中では、キャビアのついた機内食が出て、みんなで感激しました。
ペルシャ語を選択している学生全てに、「イラン人とはあのように迫力がある人が多いのか!?」という懸念がありました。この頃はまだインターネットがなくて、Windowsすら世の中になかった時代です。イランについて、私たちは本と教授の話でしか知ることができていませんでした。