第2外国語でペルシャ語を選択した私たちは、大学ではどんな授業を受けていたかというと―――。文法や読解を日本人の先生が、会話の授業をイラン人の先生が担当していました。ネイティブ・スピーカーのP先生は、背が高く恰幅がよくて、いつも姿勢がピシッと伸びていて、声が大きい先生でした。
前回は、中東の社会学を研究されている、ゼミの恩師であるH教授についてお話ししました。この先生のご尽力があり、なんと、私たちの代から、ペルシャ語の現地研修はイランへ行けることになったのです!
天邪鬼な私は、人があまり選ばないものを選び、第2外国語はペルシャ語を選択しました。3年生になると、中国語なら中国の大学へ、インドネシア語ならインドネシアの大学へ、旅行も含めて3週間の現地研修というカリキュラムがありました。
国際関係学部に入り、第2外国語でペルシャ語を選んだ私。ペルシャ語を選択するのは、決して悪い選択ではないと思いました。なぜなら、講師陣は、大先生を筆頭にした見事な師弟関係ができており、講師間で意見の相違などはなく、学びやすい環境でした。
入学した学部が、アジアのことを学ぶ国際関係学部だったため、第2外国語はアジアの言語から選ぶことになりました。中国語が断トツに多くて、毎年(といっても私でまだ4期)、ペルシャ語とベトナム語は最下位を競っていました。
私は決して空手をするために大学に行ったのではありません。かといって、「絶対、これをやるぞ!」などという固い決意みたいなものもなかったのですが、入った学部がちょっと面白い学部だったので、楽しみにはしていました。私が高校を卒業して大学に入った年は、昭和が終わり平成になった年でした。元号とはあまり関係がないとは思いますが、ちょうどその頃、“国際関係”という言葉(学問?)が流行ってまして、あちこちの大学で「国際関係学部」というのができていました。
中学・高校では軟式テニスをして、特に高校ではテニス一色になってしまったので、大学に入ったら、「もうテニスはやらない!」とかたくなに思っていました。大学サークルがどんなものかもまったく知らないのに、そう思ってしまったために、なんと私は空手部に入ることになりました。日本の何かをやってみたいな、という気持ちもあったので、空手部に入ってみたのですが……
高校生の頃、自分が空気中に溶けてなくなってしまえばいいと思っていました。「死んでしまいたい」というような強い気持ちではなく、小さい粒になって、もしくは空気と一体となって、溶けてしまいたいと思っていました。
私は色々なことを、まんべんなくやりたくなる人でした。なので、あれだけ厳しい軟式テニス部に入っていたとはいえ、しっかり別の活動もしていたのです。前々回に書いた友達同士で作成した小冊子もそうですし、漫画研究会の幽霊部員でもあり…
前回、友達と小冊子を作ったことを書きましたが、やはり高校生活のメインは部活で、中学から引き続いて軟式テニス部に入りました。顧問の先生が高体連の先生で、男子はインターハイに出るのは当たり前というくらいの、強い部でした。一方、女子の方はそれほど強くなかったのですが……。