イランでの現地研修、前半のシーラーズ大学にお世話になっている間は、街の中にある寮を使わせてもらいました。2階建てのコンパクトな建物でした。1階には、リビング、キッチン、シャワールームがあり、寝室は3部屋くらいだったと思います。同時期に、インド人の教授(男性)も宿泊していました。
イランでの現地研修の前半は、シーラーズ大学にお世話になり、午前中はペルシャ語の授業を受けて、午後や週末はあちこち見学しに行きました。ちなみに、あちらの“週末”は、金曜日が休みなので、木曜日が週の終わりになります。私はふだんそんなに病気をしないのですが、お腹が弱くて、研修中に腹痛で数日寝込んでしまったことがありました。
日本でのペルシャ語の授業では、イラン人の先生と言うと、迫力があって怖い印象でしたが、現地の大学でお世話になった先生方は、親しみやすい先生ばかりでした。ペルシャ語で、「素晴らしい!」という意味の言葉は、「オッファリン!」とか「バリキャッラー!」と言います。
私たちがお世話になる大学がある街・シーラーズは、イランの首都・テヘランから約685km南下した所に位置する古都で、日本で言うと奈良のような街です。イランは広大な国土のほとんどが土漠(どばく)と呼ばれる乾燥した地域。古都シーラーズも、街の中心から少し離れただけで、茶色い土地が広がっています。
1991年11月某日、H教授と8人の学生たち(男女4名ずつ)が3週間のイランの現地研修へと旅立って行きました。北京の空港を経由したのち、イランの首都、テヘランまで直行です。往きのイラン・エアの中では、キャビアのついた機内食が出て、みんなで感激しました。
ペルシャ語を選択している学生全てに、「イラン人とはあのように迫力がある人が多いのか!?」という懸念がありました。この頃はまだインターネットがなくて、Windowsすら世の中になかった時代です。イランについて、私たちは本と教授の話でしか知ることができていませんでした。
第2外国語でペルシャ語を選択した私たちは、大学ではどんな授業を受けていたかというと―――。文法や読解を日本人の先生が、会話の授業をイラン人の先生が担当していました。ネイティブ・スピーカーのP先生は、背が高く恰幅がよくて、いつも姿勢がピシッと伸びていて、声が大きい先生でした。
前回は、中東の社会学を研究されている、ゼミの恩師であるH教授についてお話ししました。この先生のご尽力があり、なんと、私たちの代から、ペルシャ語の現地研修はイランへ行けることになったのです!
天邪鬼な私は、人があまり選ばないものを選び、第2外国語はペルシャ語を選択しました。3年生になると、中国語なら中国の大学へ、インドネシア語ならインドネシアの大学へ、旅行も含めて3週間の現地研修というカリキュラムがありました。
国際関係学部に入り、第2外国語でペルシャ語を選んだ私。ペルシャ語を選択するのは、決して悪い選択ではないと思いました。なぜなら、講師陣は、大先生を筆頭にした見事な師弟関係ができており、講師間で意見の相違などはなく、学びやすい環境でした。