書き方コンサルタントのふじいみほです。
「過去と未来をつなぐライフヒストリー」と題して、私の半生を辿っています。
* * *
中学校では、軟式テニス部に入りました。(今は「ソフトテニス」という名称に変わったとか……)
軟式テニス部を選んだ理由は、小学生の時にテニスで遊んだことがあったから、というのが、たぶん最大の理由ですが、背が低かった(約153cm)のでバスケットボールはダメだし、バレーボールは腕が痛くなるのがイヤ。
足が遅いので陸上は論外。
ハンドボールは野球の延長線上に見えて、野球が大嫌いだった私の選択肢には存在していませんでした。
むちゃくちゃ運動が得意だったわけではないのですが、なぜか美術部とか家政部とか、そちらを選ぼうとは思いませんでした。
もしかしたら、このあたりから「何でもやってみたい」という気持ちが強かったのかもしれません。
イラストを描いたり文章を書いたりするのは友達との交換日記でやっているし、自分一人でもできることですが、テニスは誰かがいないとできませんからね。
『エースをねらえ!』という漫画も、私たちの世代ではまだまだ影響力を持っていましたので、そういうスポ根もの(スポーツ根性もの)に憧れる気持ちもあったのだと思います。
漫画もアニメもよく見ていました。藤堂せんぱーい♪(#^^#)
実際に入った部活は、やはり先輩後輩の差があり、1年生の時は球拾いやコート整備がほとんどで、着替えも部室は使わせてもらえず、やたら2年生の先輩がピリピリしていました。
3年生の先輩はとても大人っぽく見えて、同じ中学生とは思えませんでした。
当時、早見優の『夏色のナンシー』がヒットしていて、友達と「あの先輩、早見優みたいだよね~!」と盛り上がっていました。
私は校庭が広い学校と縁があるらしく、小学校、中学校、高校ともかなり校庭が広い学校でした。
中学校の校庭は、校庭全部を使うとテニスコートが8面取れるので、たいてい試合会場になっていました。
ふだんはサッカー部や野球部が使っている場所も、試合の前日にはトンボで平らにならし、ネットを張ってラインを引きました。
準備は大変でしたが、試合会場だったことで、決勝戦まで試合を見ることができました。(他会場だと負けた時点で帰ることになります)
たいてい準決勝、決勝まで残る学校は決まっています。
自分たちが2年生、3年生になってくると、今度は先輩ではなく、他校の強い人や可愛い人に注目するようになりました。
東京都では、まず区や市のレベルでの大会があります。
私の記憶では練馬区だと、公立の練馬中学(通称練中・ねりちゅう)、練馬東中学(通称練東・ねりとう)、私立の富士見中学あたりが強豪でした。
軟式テニスは前衛と後衛のペアで行い、硬式テニスのようなシングルのゲームは、当時はありませんでした。
後に、前衛・後衛といった役割もルール改正で変わっていくようですが、この時は、前衛は前衛、後衛は後衛というように、役割が分かれていました。(ちなみに、私自身は前衛でした)
強豪中学の憧れの選手も、後衛なら練中のIさんか富士見のOさん、前衛なら練東のSさん、といった具合にそれぞれいました。
自分たちはとっくに負けてしまい、少しずつコート整備や片づけをしながら、準決勝、決勝の試合を見学しました。
負けた悔しさはすでにどこかへ行ってしまい、目の前の憧れの選手を見て、
「わー!Iさんのサーブって、やっぱりきれいだよね!✨」
「Sさんのスマッシュ、かっこいい!!❤」
という感じで、友達と盛り上がっていました。
この時は、まさかあの憧れの人と同じ高校に行くとは思っていませんでしたが……。
(つづく)
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