書き方コンサルタントのふじいみほです。
「過去と未来をつなぐライフヒストリー」と題して、私の半生を辿っています。
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天邪鬼な私は、人があまり選ばないものを選び、第2外国語はペルシャ語を選択しました。
3年生になると、中国語なら中国の大学へ、インドネシア語ならインドネシアの大学へ、旅行も含めて3週間の現地研修というカリキュラムがありました。
しかし、ペルシャ語を公用語とするイランへは、学生の研修先として、まだ行くことができていませんでした。
当時、イラン・イラク戦争が終わったばかりだったからです。
とはいえ、ペルシャ語の講師陣は素晴らしい先生たちだったし、同学年の選択者数が7人、それに留年した人が1人加わって、そこそこにぎやかで、選択して後悔はしませんでした。
ペルシャ語を教えている教授はペルシャ文学の先生で、その先生のゼミを取っている人が多かったのですが、私が入ったゼミは、中東の社会学が専門のH教授のゼミでした。
当時の学部長になっていた教授がイランのフィールドワーカーで、H教授はその先生の弟子のような人でした。
なので、当然H先生もフィールドワーカーであり、イランの留学経験もありました。
難しい話よりは学生と色んな話をするのが好きな先生だったので、ゼミも面白かったです。
脱サラをして研究者になったという経緯もお持ちでした。
このH先生、教授の中では若い方でもあったのですが、靴下をちぐはぐに履いてきたり、セーターを前後反対にして着てきたり、メガネ、メガネ……と探すのは日常茶飯事。(先生は既婚者です)
同期のゼミ生で、アラビア語を選択していたMちゃんは、姉御肌というのか、相手が先生だろうとけっこうズバズバ物を言う人で、H教授はしょっちゅうMちゃんに注意されてましたね。
「先生! またセーターがうらっ返しになってるよ!」
「なんで!? 靴下の柄が違うww(笑)」
H先生のおかげで笑いの絶えないゼミでした。
(つづく)
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